海の音
「貝に耳を当ててごらん、海の音が聞こえるから」
そんな事を貴方が言ったから、僕は必死になって、貝を探した。その時は海の音を聞きたい一心だったけれど、今ではあれは貴方の悪意と言うか悪戯心だったのだとわかる。何しろ周りには、海の音という物を聴かせてくれそうな、でかい貝なんて物は無かったからだ。小さい貝を拾い上げ、耳に当てると、貴方は言ったもんだ。
「そんな小さいのではいけないな。もっと大きいのでないと、巻貝とか」
巻いている貝を、僕は探した。懸命に走り回っているのを、貴方はずうっと見ていた。段々と姿が小さくなっていくのも構わず、ゆっくりと後についてくる。
思えば貴方からすればその貝探しは、僕という騒がしい子どもをあしらう、絶好の手段だったのだろう。僕が縦横無尽に走り回って、疲れて、諦めてしまうのを待っていたのだ。
しかし、そうはいかなかった。結局貝は見つからず、夕暮れになって、僕たちは帰る事になった。けれど僕は、ぐずついた。海の音、子どもの僕には、とてつもない宝物の様な気がしていたのだ。
言ってしまえばその音は、巻貝という空洞の少ない物の中を、風が懸命になって通るのが、『ゴー』と鳴るだけの話だったのだけど。
いつまでも涙目で駄々をこねる僕に、貴方は言ってしまった。
「今は帰ろう。おじちゃんが明日早く起きて、捜しておいてあげるから」
貴方はきっと、家にさえ帰ればけろりと忘れてしまうだろうと思っていたはずだ。けれど僕は家に帰ると、そんな期待に応えるはずも無く、周りに言い触らしたのだった。
「明日、おじちゃんが貝を取って来てくれるんだ。海の音を聞かせてくれるんだ」
その喜びようと言ったら、周囲に気の毒だと思わせるには充分な物だったらしく、貴方は随分と酷く叱られていたようだ。子供心に、どうして怒られているのだろうと、首を傾げた物だ。ただ、頭の中は海の音でいっぱいになっていて、気も回らなくなっていたのだろう。
いつまでも興奮している僕を、母が宥めて、風呂に入れた。貝探しで汗まみれになった身体のベトベトが、かけ湯でたちまち落ちていくのが心地良い。そんな事を思うと、幼いながらも不安に思ったのだろう。僕は母に訊いたものだ。
「おじちゃん、貝探し、大丈夫かな? こんなに大変になっても、見つからなかったのに」
見つかるのは、流れて来て色がすっかり黒っぽくなった木々だとか、ビンや缶だとかのゴミ位の物だったから、なおさらである。けれどそんな事を言いつつも頭の中では、朝起きるとサンタクロースのように、枕元へ巻貝が置いてある事を信じていたのだから、子供と言うのは恐ろしい。
しかし母も、大した事を言うのである。
「大丈夫、きっと見つけて来てくれるよ」
僕は、当時は絶対的な存在の母にそんな事を言われた物だから、すっかり自分の想像を信じ込んでしまって、満足して眠ってしまったのであった。今でも、母が何故そんな発言をしたのかは、わからない。
次の日はしゃいだ疲れから、十時くらいに僕は起きた。起きた次の行動は決まっていて、枕の後ろをすぐに確認した。枕元には期待通り、巻貝が置いてある。僕が寝ていた隣の部屋では、大きないびきをかいて、貴方は眠っていた。きっと徹夜か、早朝に起きて探してくれていたのだろう。けれど僕はお構い無しに、巻貝を持って部屋に突撃していった。
「ありがとう!」
と言って、揺り動かす。貴方は一度唸ると、眠たそうに目を開いた。
「耳、当てたか?」
そう言われて、僕は初めて耳に当てなければならない事を思い出す。そして、ピッタリと耳に付けた。
けれど聴こえてくるのは、ゴーという、つまらない音なのだ。
「なにこれ、つまんない」
正直に、そんな事を言ってしまった。貴方は目を何度か瞬かせると、力尽きたように、枕に倒れこんでしまった。
その後の事は、覚えていない。多分、母が来て、僕をその部屋から連れ出したのだろう。そのまま僕が家に帰るまで、貴方は起きてこなかった。
今では申し訳なくて仕様が無い。会う度に、その事について謝るのだが、貴方は苦笑いして「まあ、あれは俺も悪かったからね」と言うばかりだ。
今でも机の上には、その巻貝は置いてある。時折気が向いた時に、耳に当てる。ゴーという、隙間風の音がする。目をつぶれば、あの時懸命に貝探しをした思い出が甦ってくる。海の傍にある、親戚の家に宿泊した思い出である。引いては押す波に足を浸す心地良さや、全身を押し倒そうとする浜風や、畳の部屋にある扇風機の首の動きに合わせて動いた事や、様々な記憶である。
僕は貝を見つめる、あの時は大きく感じた巻貝は、手にすっぽりと収まる。ざらつく感触を楽しみながら、僕は考える。
海の音は、確かにそこにある。