蛆虫

 ある不憫な男がいました。その男は、世にも奇妙な体質を身に宿していました。
 人とは、寒い時、何かに感動した時、どうなるでしょうか? きっと、毛が逆立ち、鳥肌と呼ばれる物ができるでしょう。
 その男には首から下に、一切体毛という物がありませんでした。髪は鮮やかに光を跳ね返す、栗色の短い物。眉は細く緩やかに曲面を描き、その下には控えめ程度に垂れた、けれど形の良い二重の瞳がトパーズという名の宝石に似た輝きを持っています。唇は血色が無く、僅かに唇とわかる程度の桃色が差しているのみです。髭は無く、柔らかな色の無い産毛が生え揃っています。
 そんな様子ですからその男の容姿は、人々にバービーやリカちゃんといった、女の子が一度は流行に乗るような、合成樹脂でできた人形を思わせました。同時に、その男の素肌の人形染みた光沢は、その異形は、女性を、果ては男性さえも魅了せずにはいなかったのです。それは言うなれば、現実に降り立った、理想の体現であったからとも言えるかも知れません。
 ですが、その男は決して、自分の肌を晒そうとはしませんでした。そこには身の危険や目立つのを嫌うといった感情はありませんでした。注目される事を望む自尊心は、その男には十分に備わっていました。つまり、肌を晒すわけにはいかない理由があったのです。
 日光に弱い、違います。傷を付けたくない、違います。これらは観てもらえない事に比べれば、微々たる障害でした。
 先程も述べたように、人は何かの拍子に、鳥肌が立ちます。その男も同様でした。しかし、それこそがその男が、肌を晒さない原因となっていたのです。
 理由はわかりません。その男の親は、何かの崇りかどうかさえ、疑いました。病院にも連れて行きましたが、原因は突き止められませんでした。ただ、その結果だけがその男の前に横たわっていました。
 男の体は鳥肌が立つとき、肌が無数に粟立ちます。そこは通常の人と同じでしょう、体毛が無いため、肌が膨らんでいる事がつぶさに見えるくらいです。それから男の肌は、粟立った部分が大きくなっていきます。一つ一つが山のようになり、先端が丸みを帯びています。そしてその肥大化は遂に、一粒同士の間隔さえ埋め尽くしてしまいます。
 先端の丸みがある部分に、穴が開きます。その様は、極小さなフジツボが、体全体にくっついた状態とも言えるでしょう。次にその無数の穴から一斉に、桃色をした物が這い出してくるのです。寒天のように半透明をした物が、ウネウネと動きます。しかしその動きは一貫としており、同体である事が察せられます。
 手首から腕へと上り、首筋を避けて、背中と腹を降る、股下の周囲をやはり避けて、太股から足首まで。一斉に桃色の異物が突出します。その様相は遠くからであれば、桃色の羽毛を身に纏っているように見えたかもしれません。あるいは、毛羽立った毛布を羽織っているか、セーターを着ていると見立てることもできたでしょう。ですが異様な光景であるのに変わりは無いのです。人間の性でしょうか、その男へと近づき、後悔して逃げ去っていくのです。人並みの感覚を持つその男には、そんな仕打ちは苦痛以外の何物でもありません。
 当然の結果、その男は夏でも厚手の服を着て、鳥肌が立った時に備えていました。手首の所にきついゴムの入った服を、あえて着込みます。帽子を目深に被り、サングラスをかけて、いざという時に顔が見られてしまわないようにしています。
 その男は今日も、細心の注意を払って外出をしました。周りからは注目を浴びましたが、無理も無いでしょう。夏にそんな厚着をした人間など、いること自体が異常なのです。その男は、そういった注目を浴びる事には、慣れていました。ただ、自分の肌が、何かの拍子で鳥肌が立ってしまわないか、その事だけを心配します。
 そしていつも通り、必需品だけを買い揃えて、家に帰るのです。代わりに買って来てくれる両親はいません。その男に対して、心を折り過ぎたのでしょう。若い内に、痩せ細り、亡くなっていました。一つの幸いは、その男が社会に出るまでは生き延びられたという事でしょう。
 男は家に帰ると、汗で重くなったトレーナーを脱ぎ捨てます。半裸のまま、風呂場へと歩いていきます。脱衣所にある、洗面所の鏡を眺め、男は溜め息をつくのでした。
 その姿は正に人形のそれで、美しさの象徴ともいえるものです。その美しさが、残酷であるとも言えるでしょう。元が美しければ美しい程、それが失われた時の絶望は大きいのですから。もしくは見慣れる事ができたかもしれない物の、妨げにはなり得たでしょう。証拠に、男はタオルで汗を拭くだけで、脱衣所から出て行きました。
 男は薄い長袖のシャツを着込み、テレビなどの日用品が置かれた部屋へと移動します。テレビの前に座り込むと、DVDを再生しました。画面に映し出されるのは、化粧の濃い女性が、ソファーに身を埋めている姿です。作られた顔ではあるものの、すれ違えば五人に一人は振り返るような容姿をしています。同時にその中の男が欲に純粋ならば、期待を胸に秘めて話しかけるような、遊んでいる印象も見受けられます。
 男の声が質問し、不自然な程に艶かしい動きをしながら、女性が答えます。それが何度か繰り返されると、男が姿を現し、女性に抱きつきました。そして唇を奪います。女性も抵抗せず、差し出すように男の唇へと舌を這わせます。男の手が乳房に触れ、揉みしだきます。胸は入れ物をされてはいないらしく、抵抗無く、男の手の中で踊ります。その動きに合わせ、女性がわざとらしく小さい喘ぎ声を上げます。
 男はジーンズのジッパーを降ろし、手をまさぐると、中からぼろりと陰茎を取り出しました。まだ血が集まっておらず、くすんだ桃色をした先端は、だらりと垂れ下がっています。しかし既に太い血管が、根元から先端に向け浮き出ています。男は細い指で中心部分を掴み、ゆっくりと上下させます。たちまち血が集まり、亀頭が赤々と肥大化していきます。
 男の指は決して、短い物ではありませんでしたが、その勃起した陰茎は、指総てを使いようやく包み込める程の大きさになっていました。現在男が眺めている、アダルトビデオの男優の物と比べても、遜色は無いと言えるでしょう。
 テレビの中では、男優がその巨大な物を女性の口に突っ込んでいました。男は冷めた目で、その様を眺めています。
 男が満足するまで、女性は男優の陰茎をなめ尽くし、その唾液の粘り気が残るうちに、女性器へと導き入れました。男優が腰を振る様を、滑稽な物を見るような残酷な目で、男は見ています。よがり、高い声を上げる女に、耳障りそうに眉を傾けます。
 男優が精液を出す前に、男は用意していたティッシュに自分の欲を吐き出しました。そして、男優がまだ腰を振っているのにも拘らず、DVDを止め、テレビを消します。
 その男の着ている服が、ざわざわと動きます。鳥肌が立ったのです。男は不快そうに息を吐き出すと、手にある丸くなった物をごみ箱に投げ入れました。
 男はおもむろに立ち上がると、寝室へと歩いて行きました。男はベッドに倒れ込み、そのまま眠りにつきます。無気力なまま、力無く、これからも続く地獄を進み行く自分を、夢想せずにはいられません。
 その男にも、女性との情事が無かったわけではありません。顔だけならば、男は十分に他者を惹きつけるのですから、自然な事でしょう。しかし悉く男の肌は、その恋愛の成就を拒みました。半ば、男も諦めていました。
 ですが、男にも真に結ばれる事を望む女性が現れました。その女性には、男は自分の体質さえ打ち明けたのです。女性はその事を驚きはしたものの、受け入れました。
 男はその時一度だけ、自分が生まれた事を感謝しました。そして、男と女が結ばれようとした時です。男の体は緊張から、特有の蛆虫染みた鳥肌が現れていました。
 女性は一瞬躊躇う素振りを見せた物の、男を抱き締めました。その瞬間、男は胸に込み上げる喜びに、溺れ、息さえ忘れました。
 ですが女性の悲鳴で、その喜びは途絶えました。男の瞳には、女性の恐怖に染まった顔が映っています。その女性の肌に、赤い点々とした物ができていました。
 男は自分の体を見て、その正体を知ります。男の肌の突起物には、赤い血が付いています。そして、何かを求めるように、それぞれが別の生き物のように蠢いているのです。
 女性に噛み付いた、その事実を飲み込んだ時には、女性はもう男の前から姿を消していました。
 男は深く落ち込んだものの、妙に納得してもいました。その肌に触れた他人は、かつて誰もいなかったのです。
 鳥肌が、本来は防御反応によって起こる事を、男は知っていました。猫が威嚇する時に毛を逆立てるような、それと同じ事が起きている事を知っていたのです。つまりは男の場合、それが過剰に進化し、触れた他者を傷つけるまでになった。ハリネズミやヤマアラシと似たような物と言えるでしょう。その事実が目の前に展開されたのですから、納得すざるを得なかったとも言えます。
 そして男はその時点で、自分を諦める決心が付いたのです。