鬼の子

 小僧はどうして、泣いているのだろう。
 山奥にある、せせらぎの傍に建てられた小屋の前で、蹲っていた。
 訊ねると、小僧は言った。「中に入れない」
 私は疑問に思う。この小屋は山道を行く者たちの休憩所で、住んでいる者などいないはずだ。もしや先客がいるのかと、戸を叩いてみる。
 返事は無い。私は戸に手をかけ、引いてみる。鍵はかけられておらず、すんなりと開いた。中を覗くが、人はいないし気配も無い。
「ほら、入れるではないか。人もおらん」
 振り向きざまに言ってやるが、小僧は顔一つ上げようとしない。横に首を振っている。私は小僧に近づき、肩を叩いてやる。小僧がその手を払ってきた。苛立たしさが込み上げる刹那、私の肝は瞬く間に冷えていく。
 私は小僧の手を見た。血のように赤い、紅葉のような手である。五指の先には、鋭い尖端を持つ白く厚い爪を携えている。
「鬼の子か」
 私は慄く心持ちを抑え、訊ねる。
「だったらどうした」
 鬼の子は顔を上げた。皮を剥がれた兎のような、赤い肌をしている。額には黄色の角が、申し訳程度に生えている。私は腰に差した刀に手を添える。
「切りたきゃ切ればいい」
 鬼の子は拗ねた様子でぼやく。大きな丸い瞳に涙を浮かべ、小振りの鼻からは鼻汁を垂らしている。唇を噛み、不機嫌に眉根を寄せた。しゃっくりをしたのだろう、肩が跳ねる。
 私の中で、恐怖心がたちまち引いていく。普段見慣れた子供が、涙を流す様子と一緒だったからだ。鬼だろうが、変わりはしないのである。
 私は刀から手を離し、小屋へ向き直った。戸の上を見ると、鬼の子が入れなかった原因はすぐにわかる。なんという事は無い、魔除けの札が一枚張られていたのだ。今度は立て膝になり、鬼の子と視線を合わせる。
「小僧」話しかけると、鬼の子は鼻水を吸い上げた。私は口元を緩ませ、提案する。「中に入りたいのか」
 鬼の子は、目を皿のように丸くした。当然の反応だろう、人間達に忌み嫌われこそすれ、本来は親切にされる事など無いのだ。
「たまには、こういう気まぐれを起こす者もいるのだ」
 私は得意になって、戸の上に張ってある札を剥がしてやった。
 鬼の子は、まだ目を丸くしている。気がついたようにまばたきを数度すると、袖で顔を拭った。唇をむつけたように尖らせている。
「雨風をしのぎたかったのだろう? 山は夜冷えるからな」
 私がそんな言葉をかけてやると、鬼の子は顔を背けた。照れ隠しである事は、肌が赤であろうとも察しがつく。
「それでは、私は先を急ぐ。達者で暮らせ」
 私は清々しい心持ちで、その川の傍の小屋を後にした。山中の険しい道も、その気持ちの後押しで、幾分楽に思えた。

 後日、私は良からぬ噂を聞きつけた。雨の振る中、山を越えようとする者が、決まって行方不明になるという物である。
 すぐに鬼の子の仕業であると見当がついた。雨宿りをする為に小屋を訪ねた者を襲っているのだ。私は恩を仇で返された怒りに打ち震え、山道を歩いていく。
 山中、雨が降り出した。噂通り、好都合だ。私は昂る気持ちを鎮めるため、腰の刀に手を添える。
 雨で衣服が濡れべとつき、編み笠の縁から水が滴る頃、ようやく小屋に着いた。雨は着いた途端に止んだ、もうすぐ晴れるだろう。帰り道を思えば、更に都合が良い。
 私は戸口を一息に開き、声を張り上げる。
「鬼! いるのだろう!」
 私は足を踏み入れ、腰の刀を構えた。中は暗く、ぼんやりとしている。端の暗がりに、何か蹲っているのが見える。あの時と似た光景が、憤怒の情を掻き立てた。
 鬼の子がこちらを向く。暗い為に顔は判断できないが、その額には、確かに小さな角がある。
「あんたなのかい?」
 鬼の子が呟く。その声には、場違いな喜びが込められている。あまりに好都合な段取りに、笑いが込み上げてくる。
「そうだ」私は答えながら、刀を慎重に、音の出ないように引き抜く。
 鬼の子が立ち上がり、走り寄ってきた。私は暗闇で動く人影に、肩口から斜めに切りつけた。
 声も無く、鬼の子は地面に伏した。赤い血が大量に流れ出し、致命傷である事を示してくれる。鬼の子の手が震え、こちらに伸びてきた。
 私の中で再び気まぐれが根差してくる。せめて最期くらいは見届けてやろうと、腰を屈めた。
 戸の方から、光が差し込んでくる。太陽が雨雲から顔を出したのだ。私は自分の腕前を確かめるべく、体を移動させ、陽光の元に鬼の子を照らした。
 その顔には、無数の傷跡があった。片目は潰れ、鼻は無残に欠けていた。以前の端整な顔の面影は、無くなっていた。
 残された瞳から、一筋の滴が垂れる。鬼の子は口元で何かを呟く。震える手から力が失われた。。
 私は次々と巡る考えに、整理をつけられずにいる。私のした事は正しかったのか――否、何が正しいのかさえ、もうわからなかった。
 小僧はどうして、泣いていたのだろう。