愛を知る場所

 もう何度目か分からない、坂道を上っていく。歩道の無い道路の脇には茂みが生え、田舎然としている。小高い丘をぶち抜いて作り上げた物だから、芝がなだらかに下降線を辿った後に、坂の終わりを待ち兼ねたように田んぼの正方形が連なっている。
 その丘の上には白く輝く箱が一つ、そびえている。屋上に灰色の貯水タンクを備えた建物は、白い壁に小さな窓を均等にいくつも並べている。部屋の一つ一つが、外側に向け主張しているように見える。
 発展しそびれ、田舎を残しているこの町は、丘の上に総合病院をこしらえていた。発展を目処に置かれた、無計画ゆえの結果だ。
 その病院へ定期的に通い始めて、半年は経っているだろう。白い建物は何度通い詰めても、その様相を変えない。ふわっと何かが薫ってくる気がするのは、相変わらずだ。病院が病院たる所以だろう。
 無機的なガラスの自動ドアを抜けて、敷かれたマットで靴の土を落とすと、下駄箱の無数に並んだ穴に靴を仕舞い込む。同時にスリッパを取り出して、履き替えた。リノリウムの床を擦るようにして歩く。
 受付に要件を告げると、台帳に名前を記す。
「いつもご苦労様です」そう言って愛想笑いを浮かべる女看護士。
「いえ」
 曖昧な返事をして、いつもの道をスリッパを鳴らして歩き出す。受付を横切って真っ直ぐに進むと階段があり、薄暗がりの先を見つめながら上っていく。途中で進行方向を折り返し、更に上っていく。
 一階は、それぞれの科の診察室。二階は入院患者用の部屋が設けられている。総合病院にしては小さいものの、人口の少ない町の人々が通うには充分な役割を果たす。階段を抜けると、その先の廊下はアルファベットの『U』字型になっている。
 左の廊下を進み、一番奥の部屋で立ち止まると、入院患者の名前が書かれた表札を見る。いつもの名前がある事に安堵し、閉められた戸を叩いた。
「どうぞ」
「入るよ」
 引き戸になったドアを開けると、小さな部屋の隅に置かれたベッドで、彼女はいつもの通りの姿勢で待っていた。硬質な程に白いシーツで下半身を被い、入院服姿の上半身を露にしている。着物のような掛け衿の合わさる部分は、胸が肌蹴易い。
 緩んで下着が見えていたのを指差し、直させる。
「ごめん」彼女は苦笑いをして、掛け衿と居住まいとを正した。「一人でいると、こういうの気にならなくなっちゃうから」
 近くにあるパイプ椅子を引き寄せ。ベッドの傍に座る。奥にある小さな小窓から、太陽が差し込んでくるのが正面に見えた。
「今日は何をしてたの?」
「午前中に本を読んで、後は寝てたかな」
 彼女はテーブルに手を伸ばすと、文庫本を手渡してくる。
「ありがとう、面白かった」
「うん」
 持って来た化学繊維の鞄に仕舞うと、新たに数冊を取り出して渡してやる。
「はい」
 歓声が上がる。「わぁー、ありがとう! もうこれだけが楽しみ!」
 微笑みを返しながら、視線を動かす。ベッドの傍に立つ金属棒に、点滴が掲げられている。アルファベットで書かれた薬品名は、一体どんな物なのかわからない。ただし、その薬品が今までの物と違うのに気付くには足りている。
「薬、変わったんだね」
 彼女は躊躇いを帯びつつ、頷いた。「前の、効かなかったんだ」
 彼女の細い腕に、点滴の針が刺さっている。その腕が前よりも痩せて見えるのは、気のせいではないだろう。何かを必死になって先送りにしているような、そんな感覚が襲ってくる。
 彼女は癌だ。進行の早い膵臓癌は、発見時には転移を済ませていた。
 不幸にも彼女の体は、抗癌剤を受け付けなかった。二種類目の是非を前にして、考えずにいられない事がある。忍び寄る何かを恐れ、目を逸らしている事にも、限界が近づいているのではないか。
「でも、副作用は出なくなったから。こうして普通の部屋にも移れたし」
 何かから目を逸らしているような、非情な感覚が濃くなっていく。彼女に持ち掛ける言葉は、余りに重い。
「何かしてもらいたい事はない? 行きたい所とか、そういうのがあったら、全力で叶えてあげる」
 彼女は否定の意を、首を振って表す。
「どうして」
「どうしてって、みんなに心配をかけちゃう」
「そんなの関係ないよ。君がしたい事をするべきだ」
 彼女は悲しそうに微笑んで見せられ、どきんと胸を打つ。深い物が込められているようで、それでいて何も感じ取れない。妙な感覚。まるで病院を見た時に感じる薫りのよう。
「じゃあ本を、もっとたくさん持ってきて。読み切れないくらい」
 遠くを見つめ、口元を緩ませる。
「あれも読まなきゃこれも読まなきゃって、考えていたい。部屋に篭っていたって、世界から隔絶されていたからって、世界は限り無く広がっていけるんだって事を、実感したい」
「わかった」そう返す事しかできない。
「ありがとう」
「本棚にある本、片っ端から持って来る。この部屋を広大な世界で満たしてみせる」
 彼女は頷いた、涙ぐんでいるようだった。見えない何かが、零れ落ちようとしていた。
 逸れてしまった話が、引き戻されていく感覚。こんな時、決まって何かがずれていて、噛み合わない気持ち悪さがある。何を話してみても、この場を収められない。
 俯いた彼女が、言葉を搾り出した。微かに響く声は、沈黙で包まれた部屋に鋭敏な影を差す。
「逃げたい」
 言葉から歯止めが瓦解する。彼女の双眸から、大きな涙の粒が落ちて、白いシーツを点々と色濃く染めた。
「だったら!」
 彼女が激しく頭を振る、余りに頑なな拒絶の表示。
「どうして」
「どうしても」
 彼女が顔を上げる。唇を噛んだ表情は、崩れていた。
「お父さんとお母さんが、心配する」
「そんな――」
 彼女は言葉を遮り、まくし立てる。「そんなものって、言わないで。あなたはそんな事、言っちゃ駄目」
 『でも』、『だけど』、『だって』。返答ができない、浮かんでくる言葉は彼女の望まぬ物ばかりだ。
「お父さんは朝から家を出て、面会時間を過ぎた時間に仕事が終わる。お母さんは午前に着替えを持って来てくれるけど、夜はお父さんと似たようなものなの」
「そんな事、知ってるよ」
「だから、お父さんとお母さんもあなたに感謝してる。代わりに、あなたが私に会ってくれているから。私が寂しがらなくて済むって」
「それも、わかってる」
「お父さんとお母さんは来れないけど、私を見放したからじゃない。だったら私は、ここにいない」
 沈黙は、肯定だ。
「私がここから出たら、二人を裏切る事になる。お父さんとお母さんが私にしてくれている事を、踏みにじる事になる」
 彼女は涙で頬を濡らしていた。
「だから私は、ここを離れない」
「わかってるよ、そんな事!」頭の中で、何かが弾けた。「でも、君を見ていたらそんな事、考えていられないよ!」
 肩に提げた鞄を、固く握り締め、怒号を繰り返す。
「君は外を見たがっていて、ここから一度でも出たいと思ってる。毎日それを見ていたら、持ち掛けない方が無理な話じゃないか」
 立ち上がると、怒りのままに息を吐き出した。
「今日は帰るよ」
 ドアに体を向けた時にはもう、後悔が根差している。
「ごめん」
 一度荒れた声は、尾を引いている。
「もうこの話はしないから」
 部屋を出て、廊下を乱暴に歩き、階段を駆け下りる。
 残酷な考えが暴れている。考えないようにしていた物が、溢れている。
 彼女は近い内に死ぬ。なのに両親に気を利かせて、残りの命を過ごしている。彼女だけの事を思えば、一つくらい裏切っても許されるのではないか。
 一日のほとんどを賭して、彼女に治療を受けさせている両親。その末を見据える事は、今はできないだろう。抜け殻になり、手元に火葬後の骨以外何も残っていない事に気付くのは、いつの頃か。だからと言って、今をどうする事もできないのだけれど。
 受付で退室を告げると、奇妙な顔をされた。構わずに台帳へ退出時刻を記し、病院を後にする。
 下り坂を駆け下りていく。向き直って見た病院は、いつもの様相を呈している。開けっ広げな感情は、告げる。薫っている物は、死だ。
 延長線に必ずある死から、目を背ける場所。それでいて、一番身近に死を感じる場所。死を避ける為の場所は、死を迎える為の場所でもある。曖昧な感覚、何かを先送りにしている気分の正体は、これなのだろう。
 彼女が気付いていないはずがない。彼女を踏み止まらせているのは何なのか。彼女がいる部屋の窓を見つめる。喉のつっかえを吐き出すように、溜め息をついた。
 紛れも無く、愛に他ならない。