聖夜はきっかけに

 一人暮らしの部屋、散らかし放題なのも構わない。中央に置いたコタツに下半身を突っ込んで、面白くも無いバラエティ番組を観ている。午後七時に始まる番組を午後九時から観る事自体、無理がある。特別な時間を過ごせない人にとって、特別な時間を過ごすよう用意された物は、残酷だと思う。
 この部屋に大学の女の後輩が訪ねてくるのを妄想する。
 想い人だ、俺の胸までしか背の届かない程小柄で、その体格からか露出の少ない服を着ているくせに、みんなが羨むくらいの細身で、短髪で黒髪で、目がパッチリとしていて、小鼻を気にしていて、色白でない事も気にしていて、髪が艶々じゃない事まで気にしていて、だから髪を染めていないらしくて、喋り方がハキハキとしていて、生意気で、ちょこまか忙しなくて危なっかしくて、でも持参の弁当が格別に美味くて、あんまり食べ過ぎると交換条件に合わないと文句を垂れて、周りが笑っているのを真剣に腹を立てて、そんな俺とのやり取りをからかわれると殊更に否定し機嫌を悪くする、その真面目さが望みの無さを証明する、近くて遠い女性、ただの友達。
 いつもの集まりは俺と後輩を合わせ、男三人、女三人。そのうち男女二組は交際が成立している。更にその二組は、後輩が俺に想われている事を知っている。地獄絵図とはこの事だ。
 残り物同士で組を作れるならば、あわよくば。ここで後輩が家を訪ねてくれたなら。
 しかし、そんな淡い考えはすぐさま破棄された。鼻がすっかり麻痺している事を自覚している。部屋中に積まれた生ゴミだらけの袋、腐臭を漂わせているに違いない。そんな物を見たら、男女問わず裸足で逃げ出すだろう。
 レポートまみれの生活で気にかける余裕が無かったなんて、言い訳にもなりはしない。
 そういう絶望も、女性が文句を言いながら世話を焼いてくれる想像の糧になるのだった。
 そもそもバイトがある予定だった。仕送りだけでは足らないから、家賃を払う為に奮闘せねばならないのだ。クリスマスイブは特別料金も付くから、絶好だ。と納得させていた。
 どんな神様の気紛れが働いた物か予定の時間を切り上げて、早々に仕事は終了してしまった。クリスマス用の商品が、この不景気を跳ね除ける異常な速度で完売したのだ。
 テレビの賑々しさが寂しさを強調する気がして、消してしまう。テーブルへ置き放しにされたノートパソコンを引き寄せた。電源を点けると、数秒も経たないうちに起動する。今月まで貯めていたバイトの給料を叩いて購入した代物だ。
 目的も無く、ふらふらと電子の海を彷徨っていく。漫画の感想サイトやら考察サイトやらは、有り余った時間を潰すのには適していた。
 ハーレム漫画の感想だけは避けるようにする、しかしちょっとした拍子に、サイトを開いてしまう。ハーレム漫画の感想を程々に、残りはクリスマスへの呪詛が多分に含まれた文章で満たされていた。結びは酷い物で、『僕達には漫画がある、二次元がある』ときたものだ。
「割り切れるかボケが」
 ぼやかずにはいられない。込み上げてくる苛立ち、乱暴にノートパソコンを閉じた。腕を後ろで組み、そのまま倒れ込む。敷かれっ放しの潰れた布団が、弱々しい音を立て受け止めた。
 深く吸った息を吐き出して、目を閉じた。もう、ふて寝しかない。しかし体は疲れておらず、眠りはやってこない。
 男の友人からでも構わない、連絡が来ないものか。当ても無い理想に縋るのは哀れだ。
 理想は叶えられる、突如鳴り出した携帯電話。急いで起き上がり、テーブルで震えているのを掴んだ。驚きは二度訪れる。
 あろう事か相手は想い人。
 取り落としそうになる手を、無理矢理落ち着かせようとして、失敗する。震える指で、折り畳まれた携帯電話を開く。電話の相手を確かめて、心臓が高鳴った。うるさい、わずらわしい、勘弁してくれ、次々と出す命令を無視して、心臓は一層大きく鳴る。鼻息が詰まる。口で息を吸う。
 通話ボタンを押して、耳に当てた。
「もしもし」
『先輩ですか?』
 想い人、後輩はいつもこの言葉から通話を始める。かける相手を決めているのだから、出る相手も決まっているのに、携帯電話が無かった時代を引き摺っている。変わる事など滅多に無い相手の為に、確認を取る。
「おう、どうした?」
『何で先輩居ないんですか?』
「何が?」
 後輩は少し酔っているようだ。言葉尻が上がっている。
『今日バイトじゃないんですか? 売り上げ貢献しようと思って行ったのに』
「ああ、案外早く完売したんだよ。だから、もう家に居る」
『えー』
 本当に残念そうに言ってくるので、ちょっと苛立って、対抗心が湧いてくる。
「そっちこそどうしたんだよ」
 確かいつもの集まりと、クリスマスパーティを開く予定のはずだ。
『一次会でお開きになったんです』後輩は言葉を荒げる。『残り物ですよぉー、どうせ私はー』
「それは、お気の毒さまで」
 二組のカップルの計らいだ。心臓が掴まれたように、苦しくなる。
『相変わらず口悪いですね。蜂、突きつけられた気分です』
「あーごめん。でも、俺だって一人寂しくパソコンしてるし。酒飲む気にもならないし」
『遠吠えですね』
「パソコンの動きめっちゃ早いのにテンション上がらないぞー」
『……なんか、気の毒過ぎて酔い醒めてきました』
 渇いた笑いを漏らして、一息つく。目を瞑り、一秒、目を開けた。
『先輩?』
 後輩の怪訝な声。返答には、唐突だったかもしれない。
「良かったら、これから俺の家で騒がないか?」
 冷蔵庫に目を配り、バイトで渡されたシャンパンやケーキなどのお裾分けが入っているのを思い浮かべる。
「用意する気も無かったのに、クリスマスを祝う用意万端なんだよ」
 後輩から、言葉が返ってこない。今頃になって、頭の中が真っ白になる程緊張していたのに気付く。その緊張と共に血の気が引いていく。
 後輩が、溜め息をついた。止むを得ず、仕方なくという意思表示。
『そうですね。先輩のアパートと私のアパート、近いですし』
 予め防衛線が張られた事に、苦笑いを禁じえない。後輩の住むアパートは、このアパートから一直線に十分程歩いた所にある。商店街のアーケードを抜けた傍なのだが、夜遅くでもある程度人通りが絶えない。深夜営業の店舗が多いのだ。後輩が今居るであろう俺のバイト先もアーケードの中程にあり、深夜営業では無いにしろ、夜遅くまで営業している。午後九時くらいでは心配に値しない。
「わかった。じゃあ、用意して待ってるから」
『無理しなくていいですからね』
「えっ?」言葉の意味が分からず、間抜けに問い返す。
『無理して部屋を片付けようとかしなくていいですからね。忙しくて片付けられない事、知ってますから』
「あっ、うん」
 先読みされていたようで、気恥ずかしくなる。了解する事しかできなかった。
『それじゃ、今から行きますから』
「おう、待ってる」
 いつまで経っても電話が切られない。こちらから切るわけにもいかず、黙っている。
『……やっぱり言っておきます。絶対、手、出さないでくださいね』
 項垂れ、携帯電話を取り落としそうになる。信用の無さは折り紙つきだ。
「出さないって」
 また、後輩は黙り込んでしまう。どうすれば良いか分からず、頭を掻いた。
『それじゃ、また後で』
 やっと出てきた言葉に、応答する。
「おう、じゃ、またな」
 電話が切られる。早速立ち上がり、散乱したごみ袋を片付けようとするが、すぐに諦めた。アパートからバイト先まで、徒歩で五分程しかないのだ。女性の足でも、そんなにはかからないだろう。
 壁にかけたコートを羽織ると、玄関に向かう。
 しかしドアを開ける前に、ベルが鳴った。
 ドアを開けると、乱暴な寒さの風が入り込んできた。開いたドアの正面に、後輩が立っている。鼻と頬が赤い、この寒空の下に長い時間居たからだ。
「寒いな、早く入ろう」
 後輩の手を持ち、引き寄せる。
「あっ」
 後輩は小さい声を上げつつも、抵抗無く中に入ってくる。ドアを閉めたところで、話しかける。
「早かったな」
 後輩は頭に被ったニット帽を脱ぎ、答える。
「電話してる時も歩いてましたから」
「ふーん……あれ?」
 突然後輩は靴を脱ぎ、中に上がり込んでくる。
「わぁー!」
 呆れた調子を帯びる大声。奥に進み、ごみ袋を一つ取り、振り返った。
「想像以上です」
 そう言って鼻を摘まむのに、苦笑いを返すしかない。近づくと、自嘲気味に呟いた。
「無理にでも片付けておいた方が良かったろ?」
「もう、言ってもしょうがないです」
 後輩が腕を巻くるのに、戸惑う。
「え、何?」
「片付けるんです。このままじゃはしゃぐ物もはしゃげないじゃないですか」
 そう言う傍から、ごみ袋を掴んでいる。
 事実元々狭い部屋は、ごみ袋が犇めき合うせいで、人が一人増えただけで窮屈に感じた。後輩の反対側へ行くと、ごみ袋を手に取った。
「全部生ゴミですよね、これ」
 後輩の問いに頷く。
「明日は燃やすごみの日ですから、もうごみ捨て場に置いて来ちゃいましょう」
 そう言って、ごみ袋を大量に抱える。視界が隠れてしまうくらいに積んでいる為、足取りが覚束無い。
 嫌な予感のした矢先、台所のカーペットに足を滑らせた。後ろにひっくり返り、倒れそうになる。
 思わず駆け寄り、抱き締めるように支える。ごみ袋が飛び、玄関にぼとぼとと落ちた。勢い余り、後退り、尻餅を付く。
 幸い布団があったので、痛みは無かった。
「危ね」呟き、後輩の顔を見下ろす。「ケガ無かったか?」
 後輩が見上げてくる。口を小さく開け、「あっ」と声を上げた。俯くと、微かに頷いた。
「よかった」
 立ち上がりながら、後輩の肩を支えて立たせる。
 後輩が俯いたままなので、首を傾げずにいられない。
「本当に大丈夫か?」
 その問いに、やっぱり小さく頷く。いつもの調子と、随分と異なる。
「あ、あの、先輩、は?」
 絞り出すような声に、相槌を打つ。
「布団敷いてあったから」
「え、あ、布団?」
 急に戸惑った様子を見せるので、こちらも慌ててしまう。
「いや、いつも面倒だから敷きっ放しなんだよ」
 返答が無い、調子が狂う。居た堪れず、玄関の方に歩いていく。
「とにかく、早く片づけしちまおう!」
 散乱したごみ袋を掻き集めると、玄関のドアノブを掴んだ。
「先輩!」
 突然の声、跳ねるように振り向く。
「な、何だ?」
 後輩は胸元で両手を組んでいる。こちらを見ずに、顔を下に向けたままだ。表情を窺う事ができない。
 後輩はその状態のまま、何も言わない。何故か、張り詰めた空気が漂っている。
 後輩の手が、傍に落ちていたごみ袋を掴んだ。今度は無理をせず、両手に一つずつ持つだけにしている。
「早く、終わらせちゃいましょう!」
 その変に意気込んだ様子を疑問に思うものの、首肯した。
「おう、そうだな」
 そうして、掴んでいたドアノブを回した。掻き集めたごみ袋を抱え、外に出る。寒い空気が鼻を刺す。吐く息は雲のように白かった。
 後輩はいつもの調子に戻っており、先程の張り詰めた空気は跡形も無く立ち消えていた。
 片付けは思った以上に難航したものの、憎まれ口を叩き合いながら行う大掃除は、思った以上に楽しかった。
 こんなクリスマスも、きっと、悪くない。むしろ、日常より少しはしゃいでいるくらいが、最高だと思う。
 後輩が、額の汗を拭く。「もう一頑張りですよ」と励ましてくれる。俄然やる気を出して、ごみ袋を山積みに抱える。
 実感する。やはり、後輩の事が好きなのだ。
 きっと、きっと、この片付けが終わったら、告白しよう。砕けてもいい、煩わしく思われてもいい、後の事を思わずに。決心が鈍らぬよう、ただ体だけを動かした。