クレッシェンドモンスター

 夜の森に、ソプラノの悲鳴が響いた。
 生暖かい風の舐める木の葉の揺れが、スタンディングオベーションのような音色を奏でる。
 月の無い空、すべてが黒い影でしか無い。
 地面の土を擦る音が加わり、不確かなリズムを刻む。悲鳴はなお、掠れながらも聞こえていた。黒い影が二つ、踏み均された道に並んでいる。蹲り小さくなった影から、声は聞こえていた。影の横には、夜の僅かな光を照り返す斧が転がっている。
 蹲る影には、斧が捨て置かれていることも構えない様子だった。ひたすらにもう一つの影から離れようと、赤ん坊のように手足を動かしている。腰が抜けてしまっているのだろう。その影の形は、逞しい体躯を誇る男であるにも拘わらず。
 もう一つの影は、その様子を見届けるように動かない。男が振り向き、動かなくなる。青い眼に映る表情は、見る見るうちに恐怖を刻んでいく。悲鳴も途絶え、顔を老人のように皺だらけにして、手の力を失い崩れ落ちる。喉から渇いた風を途切れ途切れに漏らすと、唇をわななかせる。
「化け……物」
 瞳がぐるりと裏返り、体は地面に倒れ臥す。口元からだらし無く垂れる唾液が、何かの道標のように輝いていた。
 影は男に近づいていく。白目をむく男を仰向けにさせると、左胸に手を置いた。
 一拍の沈黙の後に身を退く。男の衣服に、一粒の滴が落ちる。もう一粒が、傍の地面に落ちた。鼻をすする音が、森の中に飲み込まれていく。
 その影は足を引き摺るようにして、男から離れていった。森の木々は噂をするように、葉を擦り合わせる。

 東の山から黄色の日差しが降り注ぎ、小さな村を光の帯が照らす。色濃い影の伸びる、夜明けの始まり。既に村中は人々の喧噪に満たされていた。
 村一番の屈強な男が帰らない。その知らせはたちまち村を蹂躙した。触れ回った本人である男の母親は、寝間着の姿も構わずに村の中央で膝をつく。
 自信に溢れた男の態度に押され、強く静止することができなかった。母親はさめざめと泣き崩れた。
 村人たちは複雑な表情で、男の向かった森を眺める。森の木々は薪や工芸品、家具など様々な用途で、村に恩恵を授けてくれる。一点、夜に出没する怪物を除けば。
 数ヶ月前に突然、その怪物は現れるようになった。風貌を確かめた者は居ない。怪物と遭遇して生きて帰った者が居ないという単純な理由。骨まで食らい尽くされ、弔うことも許されない。不確かであることが恐怖を煽る。
 けれども男は普段、怪物の存在を笑い飛ばしていた。夜の森に不慣れな者が崖や窪みへ足を踏み外す、そんな無様な出来事を怪物に襲われたと置き換え、無理に納得させているのだと。だから前夜も、薪が足らなくなったと母親が呟いた際に、気軽に森へと足を踏み入れたのだ。
 太陽は次第に高度を上げて、激しく村のすべてを照らす。村人たちは取り残されたように、暗い表情を浮かべている。
 誰しもが森の方を見やるが、一歩も近づこうとはしなかった。西の森は東からの光で、既に鮮やかな緑の姿を晒している。三方を山に囲まれた村は、実質閉塞していた。村を出るには、否応無しに西の森を抜けねばならないのだ。
 村人たちにできることは、怪物が現れた経験のない昼間に森へ入り、極力近場で伐採をするくらい。であるから、男が持つ雄々しさは貴重だった。それが失われた今、村は異常な気色を帯び始めていた。
 犠牲者は二桁に上っていた。
「もう、たくさんだ」青年の一人が、声を絞り出す。「僕は村を出るぞ。出てやるからな!」
 そうして森を睨み付けるが、次第に体を震わせて涙を浮かべる。顔中を掻き毟ると声にならない声を漏らした。恐怖が心を食らい、動く力を掻き消してしまう。
 村中の者がその場所に集まっていたが、誰も声を上げず静まりかえっている。
「方法は、あるぞ」最古参の老爺が、口を開いた。「村の者全員で、逃げ延びる方法が」
 一瞬人々は騒つくが、すぐに静寂を取り戻す。老爺は重苦しい様子で息を吐いた。
「実に単純な話だ。唯一人、囮として犠牲になってもらう」
 誰しもが思いつき、否定する手段。もし他の者が提案すれば、冗談と捉えられていたはずだ。村人たちの瞳に、狂気を帯びた喜びと冗談めいたものない交ぜになった、どす黒い輝きが揺らいだ。
 しかしその唇には、くっきりと笑みが作られていた。

 その少女が選ばれた理由は単純で、村で一番病弱であったからだ。白い肌をまとう美しい容姿も、目を引く涼しげな双眸も、もはや役に立たない。
 太陽が天高く昇る頃、村人たちは各々で身支度を済ませ中央に集まった。少女は日差しの中、一層顔色を青白くさせている。覚束無い足取りは、恐怖が理由だけではない。
 そもそも少女は、村人たちほど怪物を恐れていなかった。それは屈強な男のように怪物の存在を信じていないからではない。切れ長の瞳の奥には、村人たちへの不信が募っていた。
 今朝の喧噪を、少女はベッドの上で聴いていた。両親が戻ってきて見せた表情に、少女は不気味な物が背筋を伝う感触を覚える。提案を聴きながら、少女はそれを拒否できないと悟った。瞳に映る恐怖心は、既に正常な判断ができないほどに追い込まれていることを示していた。
 少女には逃げられないように目隠しがされた。黒い布がこめかみに食い込むほどきつく縛られる。自力で解くことのできないよう、後ろ手に縛られた。
 森に入る際、少女は先頭に立たされた。病弱な少女の足取りである、否応無しに村人たちの進行は鈍重な物になった。
 村人たちは、始終声を掛け合い進む。恐怖を掻き消そうとするその動作は、硝子細工のように脆いものだ。いくら騒がしく言葉を交わそうとも、木々が風で騒めくのにさえ敏感に反応し、声を潜めてしまう。耳だけが頼りの少女はその度に後ろへ振り向き、村人たちが居ることを確かめねばならなかった。
 少女はひたすら、前に進んだ。アダージオの足取りに、不揃いな騒がしさが追従する。地面を擦る靴の音が、軍隊の大行進の如く高鳴る。日差しは強く照っていた、少女は目眩と戦いながら、息も絶え絶えに足を進める。
 そして、村人たちは未開の地へと足を踏み入れた。少女はそのことを、村人たちの騒めきが消えたことで理解した。足取りが不確かになり、遂には止まってしまう。
「どうしたの?」
 少女は再び振り向いた、もう何度目かもわからない。
 村人たちの息遣いが聞こえていた。少女は荒い息を整えるために、深く息を吐く。しかし、逆に村人たちの息は次第に、荒く、追い立てられた調子を帯びるようになる。
 後退る音、奥の方では既に、誰かが激しく土を蹴る音が聞こえる。
 大きな悲鳴が一つ上がったのが、合図になった。悲鳴は伝播し、森を包んだ。村人たちは散り散りとなり、少女だけが取り残される。
 その状況だけで充分だった。少女は辺りを見回して、当てずっぽうに走り出す。とにかく、後ろに居るであろう怪物から離れなければならない。
 しかしすぐ地面に躓いて転んだ。右の頬を勢い良く擦り剥き、苦悶の声を上げる。立ち上がろうとするが、後ろ手に縛られているためもたついてしまう。
 膝を折り曲げてどうにか立ち上がると、我武者羅に走る。どの方向を向いているのか、検討する余裕はなかった。フラフラになるも必死で走る。後ろを振り向く気持ちにはなれなかった。先程まで恐怖を感じていなかったのに、まるで流行病のよう。
 少女の足が、強く打たれた。体勢が崩れるもののどうにか立て直す。かに思われたが、その足は次に踏む地面を失った。足をばたつかせるのも意味をなさない。
 少女の体は落ちていく。躓いた際に、高い崖へと放り出されたのだ。頼れる物を無くし、巻き上がる風を感じる。悲鳴を上げることもできない。
 そのとき、少女の体を何かの腕が包んだ。驚くほど優しい力で覆われたために、少女は襲われたという思考を働かせることができなかった。
「どういうこと?」
 思わず呟いた言葉を聞いていたのか、僅かに腕に込められた力が強くなる。大切な物を取り落とさぬことと傷つけないことを両立させるかのようだった。
 地面に着地する際も、激しい音がしたにも拘わらずほとんど衝撃は伝わってこなかった。少女を降ろすのにも、確かめるような動作だった。
 少女は卵を扱う様を思い浮かべる。
「あ、ありがとう」
 怪物の息遣いが聞こえる。何か重い物を吐き出すようである。
「縄を、解くよ」
 野太い声が耳に届き、少女は目隠しの中で目を見開いた。
「喋れるの?」
「後ろを向いて」
 怪物は質問に答えなかった。少女が後ろを向くと、手際良く後ろ手に結んだ縄を解く。
「器用、なんだね」
 少女は振り向き、自由になった手で目隠しを解こうとする。
「待って!」
 存外大きな声に身を竦める。少女の様子に気づいたのか、怪物は再び重い物を吐き出した。
「見ない方がいい」
 震える声に、少女は息を呑む。諦めと悲しみが混ざり合った感情が溢れ出している。
 少女は微笑んでみせた。「わかった」
 きつく締まった目隠しを緩めるに止める。瞼を閉じて、指で布をなぞった。
「でもどうして?」
「姿を見られたときの恐怖が、増えてしまう」
「一度怖がらせると、余計に怖がらせてしまうということ?」
 怪物は答えない。
「どうして、こんな所に来たの?」少女は率直に問いかける。「嫌なんでしょ。それなのにどうして?」
 怪物は黙っている。
「今回だって、わざわざ出てこなくたって――」
「待ってくれ」
 怪物が言葉を遮る。少女は身を竦めるが、努めて怪物の方を見つめていた。
「ここには今来たばかりだ。落ちそうなのを見つけたから」
「えっ?」少女は問い返さずにいられない。「村の人が逃げていったでしょう?」
 怪物は合点のいかないようだ。
「見たのは、崖に落ちそうになっていたところだけだ」
 嘘を言っているようには、思えなかった。
「そう、なんだ」
 ということは、村人は未開の地に着いたというだけで逃げ出してしまったのだ。
 息を吐くと、突如目眩が襲う。病弱な体であるのを忘れていた。
「あれ?」
 ふらりと体が崩れるものの、怪物が体を支えてくれた。
「あ、ありがとう」
 頭が変に熱っぽくなっていた、頬の傷が疼いているせいだろう。深呼吸をすると、瞼の奥で瞳が潤んでくる。怪物に体を預けると、少女は空笑いを漏らす。
「ごめんなさい、私ちょっと、駄目かも」
 少女の体がふわりと浮き上がる、怪物が抱え上げたのだ。
「良かった、近い」
「何が?」
「ねぐらだよ」
 返事と共に、飛び跳ねるように駆け出した。少女は虚ろな意識の中で、愛用のベッドを思い出す。これから連れて行かれる場所に、そのような物が見込めないことは明らかだった。
「まっ、いいか」
 そのように口元を動かす。少女を囮にし、一目散に逃げていった村人。結局、目的も達成できなかった。
「帰りたいとも、思えないし」

 連れてこられたのが洞穴であるのを、少女は隙間風と瞳の裏で感じる光の量で察する。寝かされたのは獣の皮で作られた布団の上で、藁などを思い描いていた分、安堵は一入だった。
「晴れたら干してるから、蚤はいないはず」
 怪物の説明に少女は納得する。その皮はとても滑らかで、敷き布団も掛け布団もたった一枚ずつなのに、忽ち体がぽかぽかと温まってくる。
「食料、取ってくるよ」
 頷いてみせると、怪物は怪我をした頬を優しく撫でた。
「傷に効く草も」
 怪物が洞穴から出て行く。薄暗い場所であるため、出口の方は白い光で満ちている。目隠しの中で光が揺れながら増していく。村で恐れられる怪物と、人と同じように話していると思うと、不思議な気分だった。
「本当は、夢なのかも」
 呟いてみる。次第に右の頬の傷が脈打ち始め、鈍い痛みを運んでくる。内側から盛り上がる感触が、顔の右側全体に広がっていく。それは、紛れもない現実だった。
 眠れそうで眠れない状態をふらついていると、怪物が戻ってきた。傍に座ると、何かをし始めた。
「起き上がれる?」
 その問いに起き上がると、怪物は少女の手に何かを持たせた。木の椀のようで、中には並々と水が入れられている。底には丸い物が沈められていた、先程言っていた草かもしれない。
「浸みるけど、これで傷口を洗って」
 躊躇う素振りを見せるも、怪物は少女の傍でじっと息を潜めている。ひと思いに一掬いして傷口に付けると、刺すように痛む。眉間に皺を寄せながら懸命に洗った。目隠しも濡れてしまう。ようやく痛みに慣れてきた頃には、水の量は半分ほどになっていた。一息吐くと、次第に傷口がひやりとしてくる。
「もう、大丈夫?」
 獣は器を受け取ると、立ち上がる。
「食事の用意をするよ」
 と呟いて、外に出て行った。どうやら充分と言うことらしい。
 怪物が作ったのは、何かの獣を焼いた物と野菜を和えた物だった。目隠しをされているため見えなかったものの、味は非常に美味しかった。腕によりを掛けたに違いない。
 そんな丁重な振る舞いは、少女に疑問を抱かせる。人を襲う怪物が、こんなことをするだろうか。しかも自分が怖がられることも、村人が死ぬことさえも悲しんでいる素振りをしていた。けれど村人を襲ってはいないものの、怖がらせているのは事実だ。避ける方法を思いつかないわけじゃないくらいは、賢いはずだ。
 もう一つ、気になることがあった。恐怖を与える存在であることは、直接被害者の数に結びつくはずがない。余計に怖がらせるだけで人は死なない。夜道に逃げ惑い起こる事故など、頻繁にあるはずがない。
 何か、村人の前に現れねばならない理由があるのか。だとしたら、それは何なのか。被害者の量を考えるなら、やはり――
 胃がぐるりと回る。けれど、頬の痛みは引いている。
「あなたは――」
 傍で怪物は獣の肉に齧り付いているらしい、咀嚼の音がする。
「出遭った人を余計に怖がらせてしまうと言ってたけど」
 音が止み、怪物から溜息が漏れる。
「怖いという気持ちが膨れ上がって、それに耐えられなくなって、死んでしまう」
「それじゃあ私は?」
「目隠しをしているから、直接見なければ平気なんだと思う」
「なら、目隠しを外したら」
 怪物は答えない。少女はぞわと肌が粟立つ感触を覚える。今正に、恐ろしい綱渡りをしているということになる。
 もう一つの疑問を訊ねることを躊躇う。
「じゃあどうして、村人の前に現れていたの?」
 昨晩も、そうだった。少女は改めて問い直した。
「……村人と出遭ってしまうような場所に来ていたの?」
 きっと、確信だ。
「寂しかったから」返答は早かった。
 それきり、怪物は沈黙している。
「……そう」
 少女はもう、何も訊けなかった。

 頬の傷がかさぶたに変わる三日間、怪物の献身ぶりは相当なものだった。衣服の洗濯から体の汚れを拭くことまで、身の回りのことはすべてこなした。目隠しの布については手を縛っていた布も利用して、片方を洗った際は一方を使用するという方法が取られた。
 少女は怪物の甲斐甲斐しい世話を拒まなかった。何かの拍子に目隠しが取れてしまうのを恐れなかったわけではない。それでも久しく味わっていない雛のような保護を受け入れるのに、強い抵抗は無かった。ただ、その世話が保護をされなくなった発端の怪物によりなされていることが、毒の効き過ぎた皮肉として心の奥に残留する。
 生存を最優先するなら、一番弱い者を見捨てればよい。言葉にするのは、酷く簡単だった。
 けれども、言葉通りのことが起こっていた。傷に反して、少女の体調は悪化していく。定期的な医者の診断を怠らざるを得ない状況が、そうさせていた。人並み程度であった食欲も失せ、起き上がるのにさえ息が荒くなる。
 それにつれて、少女の怪物への恐怖心は薄れていく。否応無しに近づく死がそうさせているのだろう。終わり方にこだわる意味も、もはや無かった。だからこそ、目隠しを外しても平気な気さえしたのだ。見えなかったものや知らなかったものを、一度近づいてよく見てみると、さして怯える必要が無いように思える。それに、この怪物を前にして初めて怖がらずに死んでいくというのは、現状では悪くないかも知れない。
 少女がそのことを怪物に告げると、息を呑む感触が伝わってきた。
「不思議よね。怖がらせるだけで人を殺してしまうなんて」
 怪物は黙ったままでいる。 
「しかもその怪物が、人と同じように話せるなんて」
 病床に臥す少女の声は、喉の奥底で震えるようだった。
「まるで物語に良くある、呪いで姿を変えられてしまった人みたい」
 小さく笑うと、少女は眠りについた。何か、穴埋めを果たしたような、そんな心持ちで。
 少女の変化は、怪物を戸惑わせたようだった。今までの優しい接し方に、危ない物を触れるような調子が混ざる。尖った針に皮膚を突き破られぬようにする触れ方。
 目隠しを外したときすぐにでも視界から逃げられるようにするため。少女にもそのことは容易に想像ができた。
 本当に、恐怖を与えることが恐ろしくて堪らないのだ。一度できた傷は丈夫になる暇も与えられず、ぐりぐりと抉られて。生々しい真っ赤な傷口から、常にとろとろと血が流れ出る。怪物はいつも、その痛みに泣いている。
 優しいのだ、悲しいくらいに。
 その事実が染み渡るのには、二日間を要した。掛ける言葉のすべてが上滑りをする、奇妙な時間を過ごした。わかっているつもりで話しても、決して理解できていない。そんな歯痒さがあった。
 支えが完全に取れたのは、朝が洞穴に光を投げ掛けたとき、怪物がもう朝食の準備を終えていたのに気付いたときだ。
 けれども掛ける言葉が見つけられずに、朝食を過ごした。
 朝食後の短い眠りから目覚め、怪物が近くにいることを確かめる。ぱちぱちと焚き火の音がしていた。
「ごめんね。もう、変なこと言わないから」
 少女の言葉に、怪物はただ「うん」と返事をした。
「今、いつ?」
「昼だよ」
「そっか」
 言われてみれば、焚き火からは獣の肉の焼ける臭いがしている。油が燃え上がる甘ったるい感触は、衰弱した彼女には辛い物だった。
 胸が詰まったようになって咳き込む。二度、三度繰り返すと、喉の辺りが血生臭く感じ始める。いつものことだと思っていると、一際大きないがいがしさが胸と喉を充満した。
 水っぽい音、口に当てた手がべっとり濡れた。粘性の液体は糸を引き、口の中に残っている。濃い血の味。
 怪物がやにわに立ち上がったのを感じ取る。何かが起こったのだ。現状を終わらせる何かが。
 青ざめた少女に、怪物は一言だけ。
「村に帰ろう。送るから」
「……いや」
 少女は何故か泣き出しそうだった。小鳥のような高く細い声が、こめかみにじわり熱を伝える。
「絶対に、死なないで欲しいんだ」
「……いや」
 怪物が少女を抱き上げる。もう、抵抗する力は残されていない。呆気なく洞穴から出てしまう。真昼の日光は、目隠し越しでも焼けるように眩しかった。
 山道を下る怪物の足取りは慣れている。村へ一直線に繋がるはずの道を何度辿ったかは、村人が減った数から容易に想像ができてしまう。村の脅威は村の灯りを求めずにいられなかった。まるで理性の効かない蛾、とてつもなく下らない理由に苛まれて。
 少女には納得や理解ができても、割に合わない感情は拭い去れなかった。寂しさだけのために、幾つもの犠牲を生み出したのは事実だ。でも、怪物を否定する自信も、無かった。
「こんなのどう?」だから、そんな提案をする。「この前話した物語、詳しく考えたんだけど」
 怪物が返事をしないから、少女は構わずに話を続ける。
「あなたは昔、人間だったの。けれど神様か魔女か悪魔か、何でもいいや、とにかく大きな力を持つものの怒りを買って、呪いを掛けられてしまった。あなたを怖がった人が、死んでしまう呪い」
 言い聞かせる口調は、足音にさえ掻き消されそうな薄弱な物だ。
「あなたがこの森から離れられないのも、その呪いの一つ。呪いを掛けた人の意地悪な気遣いなの。……多分あなたがかつて、あの村の住人だったから」
 ありきたりな物語は、怪物の脅威や惨劇と怪物の優しさを断ち切ろうとする気休めだった。
「その呪いを解くためには、あなたを怖がらない人に出逢わないといけないの。あなたを受け入れる人に。そして、私がその人」
 怪物は黙っていた。周りの木々の掠れる音、鳥の囀り、様々な音が耳に入り込んでくる。怪物の息遣いは、穏やかだった。
 ぽたりと、少女の体に水滴が落ちてくる。もう一つ、落ちてくる。濡れた胸元辺りを触れ、雨だろうかと頭上を見る。けれど、周りからは水滴が叩く音は聞こえてこない。
 また一つ、水滴が落ちてきた。じわりと服が湿る。そこでようやく、気がついた。少女はただ、怪物に身を寄せた。

 まず、悲鳴が聞こえた。それが、村に帰り着いたという合図だった。
 怪物は何故、わざわざ村にまで歩いてきたのか。村の前で少女を降ろせば良かったのではないか。いくら衰弱していたとして、僅かな時間を歩くことくらい、できないはずがなかった。
 少女はその意図を捉えかねて、怪物の顔があるであろう方向を見上げるしかない。
 激しい足音がしていた。大勢が犇き合い、方々へ走り回っていることだけはわかる。
「降ろすよ」
 怪物は優しく呟くと、ゆっくりと少女を降ろした。少女は訳もわからず、見えない視線を転々とさせる。泳がせた手に、怪物の姿は見つけられなかった。
 その騒々しさが、突然止んだ。
 次に、空気の割れる音がした。破裂音は、何度も続いた。
 そして、近くの地面で何かが倒れた。
「え?」
 周りからの歓声が、耳をつんざく。知識の精一杯を絞り出して、今の状態を把握しようとする。
 どう誤魔化そうとしても、答えは一つしかなかった。
 少女は目隠しを外そうとする。もたついて、上手く結び目が解けない。ぐずついた声を上げながら、どうにか振り解く。目隠しが髪の毛を伝い落ちるのも構わず、怪物の方へ向かう。鼓動はアレグロ、動きはアダージオ。眩しい光に目を細めて、何度も瞬きをする。その動作が億劫だった。それらの動きに連れ歓喜の声は沈んでいく。
 怪物の前に跪いて、失望混じりの溜息を漏らす。わざとらしく、大げさに、震えを隠して。露わになった姿へ一言。
「なんだ、大したことないじゃない」
 虚ろな瞳をした怪物は、ピアニシモの笑みをみせ、絶命した。
 村人の集まりは、再度騒めいていた。怪物を仕留めたことや少女の無事を喜ぶものでなく、怪物と少女の関係を訝しんでのものであるのは明らかだった。
 よもや奇異の目の対象は、少女だった。村中の視線には、少女の両親も含まれる。少女は目に浮かぶ涙を零さぬよう、顔を少し上に向ける。
「あーあ!」
 そうして、わざとらしく、大げさに、声を張り上げた。血の迫り上がる感触は、妙に心地よかった。色々な物が吹っ切れた。
 静かになる村人たちへと、満面の笑みを投げ掛ける。
「私、この怪物たちの巣に連れて行かれたの」
 沈黙は快感だった。怪物の体や顔を撫でながら、含み笑いをする。
「数え切れないほど、たくさん居たよ」
 言葉がすらすらと流れ出てくる。まるで劇の主役になった気分だ。
「私はね、怪物たちに会って、話し合いをしてきたの。もう村には手を出さないで下さいって。怪物たちはわかってくれて、それを伝えるためにお迎えまで用意してくれたのに、こんな風にしちゃうなんて――」怪物を見やると、村人へと投げやりな視線を向ける。「近々、仕返しに大勢で攻めてくるかも」
 少女に、黒い筒が向けられる。持ち主の怯えきった顔には似つかわしくない、大仰な凶器だ。
「嘘をつけよ」
 凶器を持った男が近づいてくる。声は銃口よりも激しく震える。
「こんな嘘、つく意味なんてある?」
「うるさい!」女性の悲鳴みたいだった。「……そうだ。お前、怪物が化けているんだろう? だからそうして、俺たちを騙してるんだ。俺たちがこうして武器を持っているのが恐ろしいから」
 少女は思わず吹き出した。男はその様子に激昂する。受け入れがたいものが頭を占めていくことへの、無力な抵抗だった。
「ふざけんなよ、嘘つきが! 畜生! 畜生!」
 引き金に指がかかる。少女は村人の集まりを眺めた。誰も、男を止める者は居ない。
 少女は奥で小さくなっている両親に、首を傾げてやる。微笑んだまま。両親は、目を逸らすだけだった。
「……そっ」
 鼻で笑うのと、銃声が轟くのは同時だった。瞬く間に目隠しをされる視界の中、少女は思う。
 ――その村が滅びたのは、まもなくのことでした。